定年退職する

おことばに甘えて例のあれを追加 (14/12/15 15:00)


このエントリは誕生日アドベントカレンダーの13日目です。
前日はいません。13日目にして最初のエントリです。


はじめに

IT業界にいる人にはよく知られてるけど、35歳定年という話が以前からある。
いまはあまりあてはまらないという話も出てきてるけど、人月商売主体のSIerにおいては、依然としてこれくらいの年齢から現場を退きはじめる例は多い。

今日35歳。
年齢に関する法だかなんかでは昨日で35歳。

定年だ。

新卒でいまの会社に入って10年目。
10年を泥のように働き、この度SIer退職という運びになった。

実際の退職日は来年1/15なのでタイトルはちょっと煽り気味だけど、昨日、最終出社(仮)をしてきた。

きっかけ

以前から@mesoに冗談めかして誘われてはおり、ただ、ある時、いままでとは違う雰囲気を感じた。「ちゃんと誘う準備ができた」みたいな。
それで誘われることにした。

もちろん現職が万事障りなしということはなく、小さないろいろはあったのだけど、辞める理由というほどのものはなかった。強いていうとSIer文化、中でも下請け体質みたいなのが多くの人にあるのが心の持ちように影響した部分はあるかもしれない。

「その小さないろいろってのはなにさ」というのは、そのうち書くこともあるかもしれない。このエントリにつめこむと不平不満批判のかたまりみたいな印象になってしまいそう。

転職活動について

そんなわけでお誘いあってのことなので活動というほどのことはないけど。。エントリ自体は中途採用ページから通常のルートで行った。7月下旬にエントリ、翌週に一次面接、その翌週に最終面接、さらに(翌週に内定出てたらしいけど決裁の関係で)翌々週に正式な通知がきた。
世間の転職に比べると一瞬みたいなものだろう。

面談自体も人見知りとしてはありえないリラックスさで臨めたほどなのだけど、結局エントリから内定通知までは、心拍高いわ食欲ないわ眠れないわ、寿命を縮めた実感はある。

ジョブホップアーティストにはとうていかなわない。

ましてや、こんなの同時に数社すすめられる人はすごい。胃潰瘍になっちゃう。

今後について

上で「最終出社(仮)」と書いたように完全に出社しないわけではないもよう。
何が仮かというと、就業規則にひそんでいた罠関連の後始末とか、いまの現場に関して、引き継いだ内容を中心に「個人的に」協力することになっていることとか。

ともかくも業務としての自社出社は終えてきた。

退職後はドワンゴでひとまずはScala書きになる予定。
当初は9/16入社のオファーをもらったのでそれを受けてれば出戻りの人と同じく最後の中途入社の人になれたんだけど、諸々の事情やわがままがあってこのタイミングになった。

ほんとのC++プログラマだったらそっちもありだったんだけどね。

現職について

現職は独立系のSIerだ。最近はユーザ直請けを増やしてきているが、歴史的にも、いまでも、大手の下請けが主力である。その構造的なことや善し悪しについてはこのエントリでは触れない。

入社からのことをざっと並べてみる。きれいにまとめることもあるまい。箇条書きにもしない。あえてね。

研修おわったら方式設計に力を入れるということで作った部署に配属された。
その部署では最初にでっかいプロジェクトのDBAチームに3ヶ月ほどいった。でも全体としては受注件数が圧倒的に少ないということで次は同じ部門のC++な案件にいった。

この案件はいろいろフォークした案件があったのだけど、翌2年目にフォーク案件のうちの1つの開発リーダーになった。

途中C#のスクラッチを挟んだりしながら4年目目前で異動。社内のSOA推進を任された。所属する部署は当初予定では形式的なものでどこでもよかったのだけど、Java製Webアプリケーションを中心に部署横断的にサポートしてる部署に所属することになった。この部署はたぶん初めての戦略的コストセンターだったはず。

ここではじめてJavaとかWebの世界にさらされることになった。
はじめた年にリーマンショックがあってSOA専門でどうこうといえる時代じゃなくなったので、所属部署的本業もやったり、新人研修にちょっかいだしたり、極秘プロジェクトを率いたり、多彩だった。アメリカ出張もあった。

ここ2年ほどは個人的に声をかけてもらったとこからつきあいが始まった現場にいた。
ここまで、ほとんどが3ヶ月くらいでプロジェクトを渡り歩く感じできており、同じプロジェクトに関わったのは最長でも10ヶ月だったので「ここの現場も2年目」というのが逆に新鮮だった。
この現場で初めて業務としてRubyを扱うようになった。

わりと継続的にリクルーティングの手伝いで大学いったり九州いったりもした。

2ヶ月ほど残業平均400時間なこともあった。

しょうもない、というか、共感できないプロジェクトもあった。

大事なこと、いまにいきてること、のほとんどは実際のところ3年目までに学んだ。

おおむね楽しくやってきた。
同期にも恵まれた。
上司にも恵まれたのだろう。最悪でも使えないだけで、悪影響というか邪魔になる上司との関わりはなかった。

とある役員に「うちの会社はやらせてみる文化がある」と言われたことがある。
「ものになるものもあるしそうじゃないのもあるけど、ものになったものをビジネスにしていけばいい」と続いたんだったか。
「おれもそうやって育てられたし、なるべくそうしてやろうと思っている」と。
それはある相談をしたときに後押ししてもらった言葉であった。

当時は「へぇそんな(文化がある)もんかねぇ」と思ったもんだが、いまふと思い出し「あるかもなあ」と感じる。
思い返すと95年前後までに入社した人とかかわるときは、そういう比較的裁量の余地をもらうというか、ある種の作為的に用意された自由さみたいなものがあった。

この10年、とりわけ副社長にはとても世話になった。
そもそも「おおむね楽しくやってきた」こと自体が多分にその副社長に負っているし、その他にもいろいろ まあ詳細は今回は割愛する。

伝えたいことは数多あったのだけど、退職が申し訳ないこととするのも違うし、さりとて、悲しい、さみしい、残念、心苦しい、などといった言葉は、辞めることを選んだ人間には吐けない。

なんとも表現しようがなく、困った。

昨日、話したときには「おれと@mesoで@mesoを選んだということか」と答えにくい質問をされた。なるほど、積極的に辞める理由がない状況での選択として辞められるほうがつらいかもしれない、と後悔した。嘘でも改善すべき点を並べたほうがよかったのかもしれない。

とにかく名残りおしさというものが、ある。
まあそれはそういうものだからしょうがない。

そんな会社だった。

そういう会社でよかった。

おわりに

実際のところ最近まで転職ということを考えたことはなかった。
同期40人あまりの中では一番考えていなかったんじゃないかと思ってるくらい。

もっとも全然考えていなかったかというと、それはちょっと嘘である。
いずれは転職する必要がでてくるだろうということは思っていた。
業界の流れ、構造的な問題、夫婦が同じ会社に所属するリスク等を考えたときに、転職というものをぜんっぜん考えてなかったとしたら、ちょっと愚鈍だろう。

でもその程度だ。自分がすることとしての認識はまだ全然なかった。
自分で決めたこととはいえ、いまだに茫然としてしまう。

先月から徐々に報告の挨拶をしていたのだけど「よく続いた方だよ」という声が多かったのは心外である。
「おめでとう」と言われるのもなんか違和感があった。
でも「誕生日おめでとう」ならオッケーだ。
うってつけのアドベントがあったものだ。

アラフォーおめでとう おれ


次はこのままいくと5日後の@yancyaさんです。ちょっと早いですが、おめでとうございます。
あと同じ日に@onkさんも誕生日と聞いています。おめでとうございます。

あと明日(未明)は双子座流星群です。

あと一応例のあれをここにおいときます。

コメントは受け付けていません。